若泉敬という人物
若泉敬(わかいずみ・けい)
昭和5年(1930年)3月29日〜平成8年(1996年)7月27日 / 享年66歳
福井県今立郡服間村(現在の越前市横住)生まれ
昭和21年(1946年)福井師範学校予科に進学
* ここで後に妻となる「根谷ひなを」と出会う。「根谷ひなを」は明治大学を卒業して司法試験に合格、福井県初の女性弁護士に。1985年6月23日、心筋梗塞で死去。
昭和24年(1949年)明治大学政治経済学部政治学科に進学
* しかし、年末に退学、改めて東京大学受験を模索する。
昭和25年(1950年)東京大学法学部に進学
* 在学中は学生主宰の研究会「土曜会」のメンバーとして活動し、池田富士夫(八幡製鉄)、岩崎寛弥(三菱銀行)、粕谷一希(月刊誌「中央公論」編集長)、佐々淳行(警察庁→内閣安全保障室長)、矢崎新二(大蔵省→防衛事務次官)ら親交を深め、芦田均などの政治家、大山岩雄などの言論人の知遇を得る。
昭和29年(1954年)東京大学卒業後、保安庁保安研修所の教官に
* 前年、保安庁に移っていた佐伯喜一が招聘。佐伯は昭和ー平成期を代表するエコノミスト。大正2年(1913年)台湾生まれで、東京帝大卒業後、南満州鉄道(満鉄)調査部勤務を経て、戦後は経済安定本部(後の経済企画庁)で日本経済の復興計画に取り組んだ。その後、保安庁、改編後の防衛庁防衛研修所の所長を歴任、さらに日本初の民間シンクタンク野村総合研究所の所長となり、後に社長、会長。
昭和32年(1957年)英国ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス大学院を修了
昭和35年(1960年)米国ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所に留学
* 留学中、ディーン・アチソン(トルーマン政権で国務長官)、ウォルト・ロストウ(ジョンソン政権で国家安全保障担当大統領補佐官)、マイク・マンスフィールド(カーター政権で駐日大使)、ウォルター・リップマン(著名なジャーナリスト)らと面識を持つ。
昭和36年(1961年)帰国後、防衛庁の防衛研究所の所員に
昭和41年(1966年)京都産業大学法学部教授
* この頃、佐藤栄作首相、自由民主党の福田赳夫幹事長から沖縄問題についての米国首脳の意向を内々に探って欲しいとの要請が伝えられる。若泉は前年、米国のマクナマラ国防長官との単独会見記を月刊誌「中央公論」に発表するなど、保守派の新進気鋭の論客として注目を集めていた。ジョンズ・ホプキンズ大学留学で培った米国人脈を見込まれた。直後から訪米を重ね、民主党のジョンソン政権で国家安全保障担当の大統領補佐官を務めていた旧知のウォルト・ロストウと交渉を始める。
昭和44年(1969年)沖縄返還交渉の密使として交渉を取りまとめる
* 1月、共和党のニクソン政権が誕生。交渉相手が国家安全保障担当の大統領補佐官に就任したヘンリー・キッシンジャーに変わる。若泉が「ヨシダ」、キッシンジャーが「ジョーンズ」というコードネームで改めて交渉のテーブルに。佐藤政権は当時、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則を国是として掲げており、沖縄返還に当たってもその方針を貫くと表明、これを受けて若泉は、沖縄からの核兵器撤去を最優先させた。米国側は核兵器撤去の条件として、「返還後の米軍基地の自由使用」、「緊急時の核の再持ち込みと通過の権利の確約」を提示してきたが、日米安保体制の本質が米国の「核の傘」にあることもまた自明の理であることから、若泉は「密約は日本国民にとって最小限の代償」と自分に言い聞かせつつ、佐藤首相をも説得、首脳間で密約を結ぶことで交渉をまとめ、11月19日の日米首脳会談が実現、21日に発表された共同声明で3年後の沖縄返還が表明された。
昭和44年(1969年)中央教育審議会臨時委員(〜71年)
昭和45年(1970年)京都産業大学「世界問題研究所」第2代所長に
* 在職中、英国の歴史学者のアーノルド・トインビーの京都訪問・講演の実現に尽力し、京都産業大学の知名度アップに貢献した。
昭和46年(1971年)『トインビーとの対話ー未来を生きる』を毎日新聞社から刊行
昭和47年(1972年)沖縄返還
昭和49年(1974年)佐藤栄作・元首相がノーベル平和賞を受賞
昭和55年(1980年)鯖江に居を移す
昭和60年(1985年)妻・ひなを死去
平成4年(1992年)京都産業大学退職
* 3月末で退職。退職金の全額を世界問題研究所に寄付し、研究所が「若泉敬記念基金」を設立。
平成4年(1992年)沖縄返還20年記念の日米合同シンポジウム
* 7月に行われたシンポジウムには、返還交渉時のアメリカ国家安全保障会議(NSC)メンバーで旧知の政治学者モートン・ハルペリンが参加していた。シンポジウムでハルペリンは、沖縄返還に関する米国政府の基本方針で、機密扱いを解かれたばかりの「国家安全保障決定覚書13号」を公開、文書の起案者が自分であり、若泉との交渉を始める前の5月28日に決済を受けていたこと、つまり、その時点で米国は既に基本戦略として核兵器の撤去を決めていたと明言した。ハルペリン、キッシンジャーともにそれを隠して交渉を続けていたことがこの時明らかになり、研究者として久々に国際的なシンポジウムに参加した若泉は大きなショックを受ける。
平成6年(1994年)著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を文藝春秋より上梓
* 628 ページもの大著の書名は、日清戦争時の外務大臣・陸奥宗光が著書『蹇蹇録=けんけんろく』の中で、三国干渉受諾について「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス=他に方法はなかったと信じたい」と書き記したことにちなむ。執筆を手伝っていた後藤乾一・早稲田大学大学院教授の証言によれば、若泉は出版前、国家の秘密を暴くだけに「これは『危険な書』だとも」と強調、「国賊」と呼ばれ、襲撃されることも覚悟し、5月の出版前には自宅の塀を1メートルほど高くした。また、国会に証人として喚問されることを想定して想定問答を繰り返す姿も目撃されている。しかし、刊行当時の国政は、非自民・非共産連立政権の(日本社会党・新生党・公明党・日本新党・民社党・新党さきがけ・自由党・改革の会・社会民主連合・民主改革連合)羽田内閣が不安定な政局運営を強いられており、6月30日には、政権を離れた日本社会党と新党さきがけが自民党と手を組んで驚天動地の「自社さ」政権が誕生する。そうした政局の激動の中に『他策〜』は埋没した。5月12日に日本社会党の村山富市が羽田首相に密約について糾したが、「核密約はありません」と一蹴。柿澤外務大臣は密約を否定し、斉藤外務事務次官は「返還が実現して済んだこと」と答弁している。沖縄では密約をめぐる議論が一時沸騰したものの、沖縄県議会が若泉に証言を求めてくることも結局なかった。ちょうどその時期、北朝鮮の核開発に危機を覚えた米国のクリントン政権が軍事制裁を行う可能性が急浮上するなど朝鮮半島情勢が緊迫化していたこともあり、過去の密約のことよりも、政治の関心はむしろ北朝鮮の脅威に日米でどう連携して対処するかに関心が移っていた。
平成8年(1996年)7月27日、福井県鯖江市の自宅で死去
平成14年(2002年)著書『他策〜』英語版がハワイ大学出版局から公刊される
* この年、機密指定が解除された米政府公文書の中に、キッシンジャーからニクソンへのメモで日米間の密約を示す「共同声明の秘密の覚書」の存在が明るみに。
平成21年(2009年)佐藤栄作・元首相の遺品の中に密約示す「合意議事録」が存在したとの報道
平成22年(2010年)鳩山政権で密約の有無を調査する有識者委員会設置
* 委員会は3月9日、正式に核密約があった旨の調査結果を報告。これを受け、公式には密約がなかったとされてきた政府見解が改められた。